国際試合 | 06/10 09:55 | - | 日本 v ガーナ | W | 4-1 | |
国際試合 | 06/06 10:20 | - | 日本 v ブラジル | L | 0-1 | |
国際試合 | 06/02 10:00 | - | 日本 v パラグアイ | W | 4-1 | |
アジア - ワールドカップ予選 | 03/29 10:35 | 10 | [1] 日本 v ベトナム [6] | D | 1-1 | |
アジア - ワールドカップ予選 | 03/24 09:10 | 9 | [3] オーストラリア v 日本 [2] | W | 0-2 | |
アジア - ワールドカップ予選 | 02/01 10:10 | 8 | [2] 日本 v サウジアラビア [1] | W | 2-0 | |
アジア - ワールドカップ予選 | 01/27 10:00 | 7 | [1] 日本 v 中国 [5] | W | 2-0 | |
アジア - ワールドカップ予選 | 11/16 16:00 | 6 | [4] オマーン v 日本 [3] | W | 0-1 | |
アジア - ワールドカップ予選 | 11/11 12:00 | 5 | [6] ベトナム v 日本 [4] | W | 0-1 | |
アジア - ワールドカップ予選 | 10/12 10:14 | 4 | [3] 日本 v オーストラリア [1] | W | 2-1 | |
アジア - ワールドカップ予選 | 10/07 17:00 | 3 | [2] サウジアラビア v 日本 [4] | L | 1-0 | |
アジア - ワールドカップ予選 | 09/07 15:00 | 2 | [6] 中国 v 日本 [4] | W | 0-1 | |
アジア - ワールドカップ予選 | 09/02 10:10 | 1 | [3] 日本 v オマーン [4] | L | 0-1 | |
アジア - ワールドカップ予選 | 06/15 10:25 | 10 | [1] 日本 v キルギス [2] | W | 5-1 | |
国際試合 | 06/11 10:25 | - | 日本 v セルビア | W | 1-0 | |
アジア - ワールドカップ予選 | 06/07 10:30 | 9 | [1] 日本 v タジキスタン [2] | W | 4-1 | |
アジア - ワールドカップ予選 | 05/28 10:20 | 7 | [1] 日本 v ミャンマー [4] | W | 10-0 | |
アジア - ワールドカップ予選 | 03/30 10:30 | 8 | [1] 日本 v モンゴル [5] | W | 14-0 | |
国際試合 | 03/25 10:20 | - | 日本 v 韓国 | W | 3-0 | |
国際試合 | 11/17 20:00 | - | 日本 v メキシコ | L | 0-2 | |
国際試合 | 11/13 14:15 | - | 日本 v パナマ | W | 1-0 | |
国際試合 | 10/13 14:45 | - | 日本 v コートジボワール | W | 1-0 | |
国際試合 | 10/09 12:00 | - | 日本 v カメルーン | D | 0-0 | |
東アジアサッカー選手権 | 12/18 10:30 | - | [2] 韓国 v 日本 [1] | L | 1-0 | |
東アジアサッカー選手権 | 12/14 10:30 | - | [2] 日本 v 香港 [4] | W | 5-0 | |
東アジアサッカー選手権 | 12/10 10:30 | - | 中国 v 日本 | W | 1-2 | |
国際試合 | 11/19 10:25 | - | 日本 v ベネズエラ | L | 1-4 | |
アジア - ワールドカップ予選 | 11/14 11:18 | 5 | [2] キルギス v 日本 [1] | W | 0-2 | |
アジア - ワールドカップ予選 | 10/15 12:15 | 4 | [3] タジキスタン v 日本 [1] | W | 0-3 | |
アジア - ワールドカップ予選 | 10/10 10:35 | 3 | [2] 日本 v モンゴル [3] | W | 6-0 |
サッカー日本代表(サッカーにほんだいひょう、サッカーにっぽんだいひょう)は、日本サッカー協会(JFA)によって編成される日本の男子サッカーのナショナルチーム。「A代表」や「フル代表」とも呼ばれる。愛称はSAMURAI BLUE(サムライブルー)。
2018年7月より森保一が監督を務めている。FIFAワールドカップには7度出場しており、最高成績はベスト16。ノックアウトステージ進出回数は4回でアジア勢最多。AFCアジアカップでは通算4度の優勝を果たしている。
大日本蹴球協會(現:日本サッカー協会、JFA)は1921年9月10日に設立され、1929年5月17日の第18回FIFAバルセロナ総会で国際サッカー連盟(FIFA)加盟が承認された。
最初の国際試合は、1917年に東京で開催された第3回極東選手権競技大会の中華民国戦(5月9日)で、東京高等師範学校の単独チームによる日本代表は0-5で敗れた。2試合目のフィリピン戦(5月10日)は、FW藤井春吉が日本代表初得点を含む前半・後半各1点を決めたが、パウリノ・アルカンタラに先制点を許すなど前半に5点、後半に10点をフィリピンに奪われ、2-15と大敗した。これは現在も、日本代表における対ナショナルチーム間の対戦における最大差敗戦試合でもあった。
1927年の第8回極東選手権競技大会には早稲田WMWが日本代表として出場し、フィリピンを2-1で破って国際試合初勝利を挙げた。1930年の第9回極東選手権競技大会には単独チームではなく東京帝国大学主体ではあったが、初めて全日本選抜が編成された。日本は中華民国と同位優勝し、国際大会における初タイトルを獲得した。
1930年の第1回ワールドカップ開催にあたり、FIFAは加盟国に招待状を送ったものの、JFAは参加を見送った。その理由は、当時の日本国内が1927年の昭和金融恐慌以来慢性的な不況であったため、同年の昭和恐慌発生でさらに経済状態が悪化していたため、そして、JFA自身も財政難であったためである。
1936年のベルリンオリンピックでは、早稲田大学ア式蹴球部主体の選抜チームの全日本が1回戦でスウェーデンを破った(ベルリンの奇跡)。五輪後の8月19日に行われたグラスホッパー・クラブ・チューリッヒとの親善試合では、1-16で大敗した記録が残っている。これは、日本代表の全ての試合における最多失点試合及び最大差敗戦試合であった。
1938 FIFAワールドカップ・予選にエントリーし、オランダ領東インドに勝てば本大会出場が決まるはずだったが、折からの情勢不安により参加を辞退した。
1913年から開催され、サッカー日本代表も1917年の第3回から参加した極東選手権競技大会は大会を主催する極東体育協会に満州国を参加させようとした日本と拒否する中華民国の対立により1934年の第10回大会を最後に幕を閉じた。そのため日本は新たに東洋体育協会を設立し「東洋選手権競技大会」を開催しようとしたが、各国の思惑等により進展せず、1937年の日中戦争開戦により中止となった。
その後は1939年に日本・満州・中華民国臨時政府の参加により開催された日満華交歓競技大会や、開催権を返上した東京五輪に代わり開催された東亜競技大会(1940年・1942年の2回開催)で実施されたサッカーに日本代表も出場している。
第二次世界大戦後の1945年11月13日に、大日本蹴球協會は会費が払えずFIFAから資格停止処分にされた。
1947年4月1日に、大日本蹴球協會から日本蹴球協会へと名称を変更し、1950年9月23日にFIFAに再加盟した。
1954 FIFAワールドカップ・予選でW杯予選に初めての参加となった。なお、韓国代表との試合は本来、ホーム&アウェイ方式で行われるはずが韓国大統領の李承晩はたった日本から独立したばかりの韓国が日本に負けること恐れたため、自国開催を拒否したことにより、2試合とも東京で開催された。日本はホーム開催ではあったが1分1敗となり、出場を逃した。
1950年代から60年代の日本は、アマチュアリズム全盛の時代であった。当時の全日本選抜選手(現日本代表選手)であった長沼健によれば1954年のW杯予選に出場した頃は、そもそもW杯がどんな大会か分からずに戦っていたという。この時期、東京オリンピックを目指して強化していた時期も重なり、W杯よりもオリンピック(以下五輪と略すことあり)に重点が置かれ、1968年のメキシコシティ五輪で銅メダルを獲得した。
1974年8月31日、協会は財団法人となり、協会誕生より53年間の任意団体から脱却し、同時に日本蹴球協会から日本サッカー協会に名称を変更した。2012年4月1日付で公益財団法人となり、それまで監督官庁だった文部科学省から完全な独立を果たした(2012年3月31日までは、財務諸表などを文部科学省に届ける必要があった)。
1986 FIFAワールドカップ・アジア予選の最終予選の韓国戦で2戦2敗に終わり、本大会出場を逃したが先立つ1983年にプロリーグを発足させていた韓国に敗れたことにより、アマチュアリズムの限界を悟ったJFAは、翌1986年にスペシャル・ライセンス・プレーヤーの導入を決定した。ソウルオリンピックサッカーアジア予選で、守備的戦術により最終戦を前に予選グループ首位に立ち、1987年10月26日、ホーム国立競技場で中国に引き分ければ20年ぶりのオリンピック出場を決められる試合で0-2で敗戦、中国にオリンピック初出場を許したが、これがきっかけとなり日本サッカーリーグの中に「リーグ活性化委員会」が設置された。また、JFAの最大の目標だったオリンピックサッカー競技が1992年のバルセロナ五輪から23歳以下の選手の大会へ規定が変更されていたため、日本A代表の目標がW杯へ変わることになった。
1992年3月、ハンス・オフトが日本代表初の外国人監督として就任、1994 FIFAワールドカップ・アジア予選では最終予選に進出するも、最終戦のイラク戦で後半のロスタイムに同点ゴールを決められて引き分けとなり、W杯への出場を逃した(ドーハの悲劇)。
1998 FIFAワールドカップ・アジア予選ではプレーオフで延長戦でのVゴールによってイランを破り、初めてのW杯出場権を獲得した(ジョホールバルの歓喜)。
代表世界大会の最高峰の大会であり、国際Aマッチデーに入っている。詳細については、各大会の記事を参照。
各大陸別選手権の王者の大会。プレW杯の大会では国際Aマッチデーに入っていた。2017年大会(第10回)で廃止。
この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。(2016年8月) |
アジアサッカー連盟(AFC)主催のアジアの代表王者を決める大会で、国際Aマッチデーに入っている。優勝すればFIFAコンフェデレーションズカップ(2017年大会で廃止) に出場できた。
アジアにおいては、AFC主催のアジアカップ(サッカー単一種目での大陸選手権)と並んでアジアオリンピック評議会主催のアジア競技大会(総合競技大会)がかつて高い位置を占めていたので、サッカー日本代表は後者をより重視した。その理由としては、当時はアマチュアリズム全盛の時代で、オリンピックを重視していたため五輪と同年のアジアカップを軽視していたことや、現在とは違い代表に投資できる年間予算も限られていたことなどが挙げられる(当時のアジア大会の最高成績は1951年ニューデリー大会と1966年バンコク大会の3位。U-23の大会に変わった後の2010年広州大会で優勝を果たしている)。
1967年7月、台北で開催された第4回アジアカップイラン大会東地区予選に日本B代表が初参加したものの予選で敗退した。B代表が出場したのは、同じ7月にA代表がペルーとブラジルへ遠征中だったためである。続く第5回タイ大会は不参加した。1975年6月、香港で開催された第6回イラン大会東地区予選では初めてA代表が出場した。東地区予選大会は決勝に進んだ2チームが出場する形だった。6月14日の組み分け予備戦(組み分けを決めるために行う試合)で香港と対戦し引き分けたもののPK戦で勝てず (0-0 (PK3-4))、グループリーグでは1勝1敗で準決勝に進み、中国と対戦したが、6分、33分と失点。日本の得点は43分に1点を返したのみで終わり、1-2で敗れ予選敗退が決まった。その後、第7回クウェート大会、第8回シンガポール大会と立て続けに参加しなかった。
前述のとおり、1992年バルセロナ五輪から五輪が23歳以下の選手の大会になったことで1987年10月26日にソウル五輪アジア最終予選第6戦最終戦中国戦で日本が0-2で敗れ、予選敗退が決まった直後からJFAは日本A代表の最大の目標をワールドカップへと完全に切り替えた。
1988年、第9回カタール大会予選で大学生を主体とするB代表が初めて予選を突破し、そのままB代表が同年12月の本大会に出場したが、本大会では1次リーグ4試合を通じ無得点で1分3敗のグループ最下位で大会を終えた。当時は依然としてJFAやマスコミはアジアカップを軽視しており(同時期に日本で開催していたトヨタカップを重視し、アジアカップに帯同する記者が少なかったことについて大会の関係者が次回の日本開催について考えなおす旨の発言もあった)、バルセロナ五輪(この五輪から23歳以下の大会)アジア予選に向けたチーム作りの一環として第9回カタール大会予選にB代表を参加させた。ところが、期せずして予選を突破したため、そのまま本大会にも出場させたという(ただし、このB代表からはいずれも1969年8月1日生以降という年齢制限のため五輪予選には参加していない)。
JFAは、日本代表監督としては史上初の外国人監督であるハンス・オフトを1992年3月に日本代表監督へ就任させた。
1992年10月30日から開幕する第10回日本大会へは開催国として出場が決まっており、開催国としても翌年5月15日に迫ったJリーグ開幕に向け盛り上げるためにも、オフトがチームを掌握するためにも(就任当初は基礎を徹底するオフトに主力が反発するも結果が出るに従い収まっていったが、中心選手のラモス瑠偉だけが猛反発した。1992年9月26日のオフトとの個人面談で和解したが、アジアカップの結果次第では再燃する恐れがあった)、そして何より翌年4月8日から始まる1994年アメリカW杯アジア予選(1993年4月8日がアジア一次予選初戦タイ戦)に自信を持って挑むためにも、この大会での勝利、好成績が求められていた。
広島県の各地で開催された日本大会では初戦のUAE、2戦目の北朝鮮といずれも引き分け、3戦目の前にUAEが北朝鮮に勝利したため 暫定3位となり、それまで1勝1分のイランに勝たなければグループリーグ敗退となる状況で、53分に相手FWが退場になり人数的に有利になりながらもなかなか得点を挙げられなかったが、87分に井原正巳のパスから三浦知良のゴールで先制し、その後アディショナルタイムにイランにさらに2人の退場者が出る荒れた試合になったものの1-0で辛勝、決勝トーナメント進出を決めた。準決勝の中国戦では開始早々に失点、その後後半に2点を入れ逆転したものの、60分にGK松永成立が相手を蹴ったとしてレッドカードで退場、1人少ない状態から一旦は追いつかれたが、84分に中山のヘディングゴールで3-2で辛勝。決勝では、サウジアラビアに対し、36分の高木琢也のゴールを守り切り1-0で勝利、主要国際大会で史上初めての優勝をもたらした。実質日本が初めて真剣に取り組んだアジアカップで、初の栄冠を勝ち取ったのであった。またこの大会は日本各地にサポーターが生まれるきっかけにもなった(それまでも東京の国立では日本サッカー狂会をはじめ数少ないサポーターたちが声をそろえて応援し続けていたが、この大会ではウルトラス・ニッポンの一般観客を巻き込みながらスタンド全体で手拍子と歌によって行う大規模な応援が注目を集め、マスコミが報道した。そのことで翌年のJリーグ開幕以降、日本各地にサポーターが誕生することになった)。
1996年の第11回UAE大会はグループリーグを3戦全勝で通過したものの、準々決勝でクウェートに0-2で敗れ、連覇を逃した。
2000年の第12回レバノン大会は直前のシドニー五輪を戦った中村俊輔・高原直泰ら「黄金世代」といわれたシドニー五輪代表と、名波浩や川口能活らフランスワールドカップ以来のメンバーが融合したチームをフィリップ・トルシエ監督が率い、圧倒的なパフォーマンスで大会を席巻。グループリーグを2勝1分で1位通過すると、準々決勝ではイラクを4-1、準決勝では中国を3-2でそれぞれ逆転で降す。そして決勝戦では前回優勝のサウジアラビアを1-0で破り、2大会ぶり2度目の優勝を果たした。
2004年の第13回中国大会ではジーコ監督のもと主力を怪我などで欠き、地元中国との対戦のみならず全ての試合で、プレー中のみならず国家斉唱の際にまで中国人サポーターの激しいブーイングを受けるなど逆境の中での戦いであったが、ノックアウトステージでは初戦のヨルダン戦ではPK戦にもつれ込み、1-3の絶体絶命の場面からGK川口能活の2つのセーブを含む相手の4本連続失敗で逆転勝利、準決勝では0-1から39分に遠藤保仁が退場処分となり不利になりながら後半に一旦逆転、その後再逆転を許すも終了間際に中澤佑二のゴールで同点に追いつき、延長に入り玉田圭司の決勝ゴールを守り切り4-3で決勝進出、決勝戦では地元中国を3-1で下して、2大会連続3度目の優勝を果たした。
2007年の第14回4ヵ国(タイ、マレーシア、ベトナム、インドネシア)共催大会ではグループリーグを2勝1分の1位で通過。準々決勝では初参加のオーストラリアをPK戦の末に勝利してベスト4へ進んだものの、準決勝でサウジアラビアに2-3で敗れ3連覇はならず、さらに3位決定戦でも韓国相手にPK戦を制することが出来ず4位に終わった。日本は、1996年大会準々決勝でクウェートに敗れて以降、この大会の準決勝でサウジアラビアに敗れるまで16試合連続無敗を続けていた。なお、サウジアラビアも1984年大会の初戦から16試合連続無敗を続けていたが、1992年大会決勝で日本に敗れ記録が止まった。なお、日本は初優勝した1992年大会以降グループリーグは全て無敗で1位通過しており、グループリーグの連続無敗記録は2015年大会までで21試合となっている。
2011年の第15回カタール大会ではグループリーグを2勝1分の1位で通過。準々決勝の地元カタール戦では10人になりながらも3-2で逆転勝利。準決勝の韓国戦では延長戦でも決着が付かずPK戦に突入し、川島永嗣が相手のPKを2本止める活躍で勝利し決勝進出。決勝のオーストラリア戦では0-0のまま延長戦に突入し、延長後半に長友佑都の左サイドからのクロスボールに李忠成がボレーシュートで合わせ代表初ゴールとなる決勝点を決めて、2大会ぶり4度目(歴代最多)の優勝を遂げた。
2015年の第16回オーストラリア大会ではグループリーグを3戦全勝、無失点で1位通過。準々決勝のUAE戦では開始早々にこの大会初失点を喫するも、終盤に柴崎岳のゴールで追いつき延長戦に突入。ボール支配率・シュート数では相手を圧倒し、決定機をことごとく作りながらそれらを全て逃し続け、延長戦でも勝負を決められずPK戦の末1番手の本田と6番手の香川が失敗し無敗(3勝1分)のままベスト8で敗退。準々決勝敗退は加茂周監督が日本代表を率いた19年前の1996年大会以来5大会ぶりとなり、Jリーグ発足後に参加したアジアカップとしても同大会と並び過去最低タイ記録となった。
2019年の第17回UAE大会ではグループリーグから準々決勝までの5試合を全て1点差で勝利。準決勝では優勝候補のイランを3-0で破り決勝に進出した。しかし、決勝でカタールに1-3で敗れ、2大会ぶりの優勝を逃した。なお、この試合が森保体制となってからは初の敗戦であった。また、優勝を逃した日本は大会通算5度目となる決勝で初の敗者となった。
AFCアジアカップ2023は開催予定だった中国が開催権を返上したため、カタールでの開催となった。前述の2022 FIFAワールドカップが同じくカタールで2022年11月20日から12月18日まで開催された影響もあり、2024年1月12日から2月10日までの開催となる。本大会で日本はグループDに入り、初戦でベトナム、第2戦でイラク、最終節でインドネシアと対戦する組み分けとなった。初戦のベトナム戦は前半11分に南野拓実のゴールで先制するも直後に16分・33分と立て続けに失点し、一時逆転されるも直後に45分・45+4分と立て続けに得点して逆転し4-2で勝利。しかし、第2戦のイラク戦ではアイマン・フセインに前半5分にヘディングで先制ゴールを決められると45+4分にもフセインにヘディングでゴールを決められて前半を2点ビハインドで終えることに。後半に入ってからは日本のペースで試合を進め、試合終了間際の90+3分に遠藤航がヘディングでゴールを決めて1点を返すも同点には追いつけず1-2で惜敗。A代表で臨んだ1992年大会以来初のアジアカップグループステージでの敗北を喫した。日本はこの時点でグループステージ首位通過の可能性が消滅した。第3戦のインドネシア戦では試合終了間際にロングスローからサンディ・ウォルシュのゴールで失点するも上田綺世の2ゴールの活躍で3-1で勝利し、決勝トーナメント進出を決めた。決勝トーナメント1回戦のバーレーン戦では前半31分に堂安律のゴールで先制すると、49分に久保建英がゴールを決める。しかし、64分に板倉滉と鈴木彩艶が交錯したことによるオウンゴールで1点は失ったが、72分に上田綺世の3点目が決まりバーレーンに3-1で勝利し、ベスト8進出を決めた。準々決勝はカタールW杯後16戦無敗を維持するイランと対戦した。開始から日本がゲームを支配する中で、前半28分に守田英正が待望の先制ゴールを決める。しかし、55分にモハマド・モヘビに同点ゴールを決められると、その後はイランを相手に守勢に回る時間が続く展開に。このまま延長戦突入かと思われた試合終了間際に守備陣の連携ミスから板倉がペナルティエリア内で相手を倒してしまいPKを献上すると、このPKをアリレザ・ジャハンバフシュに決められたところで試合終了。アジアカップ史上初めて全試合で失点をし、総失点数は5試合で史上最低の8失点と守備が安定しなかった。史上最強JAPANとも称され優勝候補筆頭だったが、3大会ぶりの優勝には届かず、史上最低タイのベスト8で大会を去ることとなった。
南米サッカー連盟(CONMEBOL)主催の南米の代表王者を決める大会で、国際Aマッチデーに入っているが、CONMEBOLに所属していない招待された代表には国際Aマッチデーによる拘束権はない。日本代表はアメリカ州外からコパ・アメリカに招待参加した最初のチームで、これまでに1999年大会と2019年大会に出場した。
2011年大会にも招待を受け出場予定であったが、同年3月に発生した東日本大震災に伴うJリーグの日程変更により、主力となるはずの国内クラブ所属選手の招集が難しくなり、また欧州クラブ所属選手の招集も困難であった(アジア大陸の選手権ではないので代表拘束権がない)ことなどから、参加を断念。 2015年および2016年もスケジュール調整の関係で参加を辞退した。
1999年大会以来の出場となった、2019年大会は平均年齢22.3歳という東京五輪世代中心で構成されたメンバーで、初戦のチリ戦は0-4と大敗したが、2戦目のウルグアイ戦は2-2の引き分けに持ち込み、勝てば決勝トーナメント進出となる3戦目のエクアドル戦では、中島翔哉のゴールにより先制するも1-1の引き分けに終わり、決勝トーナメント進出を逃した。
東アジアサッカー連盟(EAFF)主催の東アジアの代表王者を決める大会。国際Aマッチデーには入っていないため、各国とも、国内以外の海外リーグに所属する選手を招集するのが難しく、国内リーグの選手のみの代表となることがほとんどである。日本代表は2003年大会から出場しており、2022年現在の成績は、優勝2回、準優勝5回、3位1回、4位1回である。
2017年大会では、初戦の北朝鮮戦は前半から攻めあぐねる場面が散見されるなど、かなりの接戦を強いられたが後半ATに井手口陽介がボレーシュートを決めて1-0と競り勝った。第2戦の中国戦も初戦に続き、前半は決定力を欠いてスコアレスで折り返したが、試合終盤の84分に小林悠が代表初ゴールを決めると、その4分後には昌子源が約40メートルのロングシュートを打ち、追加点を決めた(ゴールを決めた昌子も代表初ゴールとなった)。試合終了間際にPKを決められ1点返されるも、2-1で逃げ切り勝利した。負け以外で優勝が決まる最終戦の韓国戦は3分に小林のPKで先制するも、その後に3点を奪われるなど1-4と大敗を喫し2大会ぶりの優勝を逃した。なお、この試合で監督を務めたヴァイッド・ハリルホジッチは、翌年3月のヨーロッパ遠征後の4月7日付で解任された。
2019年大会では、初戦の中国戦は29分に鈴木武蔵が先制ゴールを決めると、70分には三浦弦太が2点目のゴールを決めた(ゴールを決めた2人はいずれも代表初ゴールとなった)。試合終了間際に1点を返されたものの、同点にさせることなく2-1で勝利した。第2戦の香港戦は菅大輝、田川亨介、小川航基の東京五輪世代の3人の活躍で5-0の快勝を収めた(ゴールを決めた3人は全員が代表初ゴール、小川は代表デビューでハットトリック達成という史上3人目の快挙を成し遂げた)。負け以外で優勝が決まる最終戦の韓国戦では28分に先制ゴールを決められ、0-1で敗戦。韓国に逆転され2位に終わり、3大会ぶりの優勝を逃した。
2022年大会は、開催予定だった中国が開催権を返上したため、自国開催となった。初戦の香港戦は相馬勇紀、町野修斗、西村拓真がそれぞれ2得点ずつを決め6-0で大勝(町野と西村はこれが代表デビュー戦だった)。だが続く中国戦ではシュート20本を放ちながら得点できず、0-0の引き分けに終わる。勝つ以外優勝はないという状況で臨んだ韓国戦は前半を0-0で折り返すと、49分に相馬勇紀が先制ゴールを決める。その後も64分に佐々木翔、72分に町野修斗が立て続けに得点を決め、3-0で勝利。韓国を逆転し4大会ぶり2回目の優勝を飾った。