スケジュール

アジア - ワールドカップ予選 06/06 13:00 5 ミャンマー vs 日本 - View
アジア - ワールドカップ予選 06/11 13:00 6 日本 vs シリア - View

結果

アジア - ワールドカップ予選 03/26 08:00 4 北朝鮮 v 日本 - CANC
アジア - ワールドカップ予選 03/21 10:20 3 [1] 日本 v 北朝鮮 [2] W 1-0
AFCアジアカップ 02/03 11:30 3 [1] イラン v 日本 [2] L 2-1
AFCアジアカップ 01/31 11:30 4 [1] バーレーン v 日本 [2] W 1-3
AFCアジアカップ 01/24 11:30 3 [2] 日本 v インドネシア [3] W 3-1
AFCアジアカップ 01/19 11:30 2 [2] イラク v 日本 [1] L 2-1
AFCアジアカップ 01/14 11:30 1 日本 v ベトナム W 4-2
国際試合 01/09 11:30 - 日本 v ヨルダン W 6-1
国際試合 01/01 05:00 - 日本 v タイ W 5-0
アジア - ワールドカップ予選 11/21 14:45 2 [3] シリア v 日本 [1] W 0-5
アジア - ワールドカップ予選 11/16 10:00 1 [1] 日本 v ミャンマー [3] W 5-0
国際試合 10/17 10:10 - 日本 v チュニジア W 2-0

Stats

 TotalHomeAway
Matches played 16 11 5
Wins 14 11 3
Draws 0 0 0
Losses 2 0 2
Goals for 58 44 14
Goals against 14 8 6
Clean sheets 6 5 1
Failed to score 0 0 0

サッカー日本代表(サッカーにほんだいひょう、サッカーにっぽんだいひょう)は、日本サッカー協会(JFA)によって編成される日本の男子サッカーのナショナルチーム。「A代表」や「フル代表」とも呼ばれる。愛称はSAMURAI BLUE(サムライブルー)。

2018年7月より森保一が監督を務めている。FIFAワールドカップには7度出場しており、最高成績はベスト16。ノックアウトステージ進出回数は4回でアジア勢最多。AFCアジアカップでは通算4度の優勝を果たしている。

History

第二次世界大戦以前

大日本蹴球協會(現:日本サッカー協会、JFA)は1921年9月10日に設立され、1929年5月17日の第18回FIFAバルセロナ総会で国際サッカー連盟(FIFA)加盟が承認された。

極東選手権競技大会ロゴ、1917年。

最初の国際試合は、1917年に東京で開催された第3回極東選手権競技大会の中華民国戦(5月9日)で、東京高等師範学校の単独チームによる日本代表は0-5で敗れた。2試合目のフィリピン戦(5月10日)は、FW藤井春吉が日本代表初得点を含む前半・後半各1点を決めたが、パウリノ・アルカンタラに先制点を許すなど前半に5点、後半に10点をフィリピンに奪われ、2-15と大敗した。これは現在も、日本代表における対ナショナルチーム間の対戦における最大差敗戦試合でもあった。

1927年の第8回極東選手権競技大会には早稲田WMWが日本代表として出場し、フィリピンを2-1で破って国際試合初勝利を挙げた。1930年の第9回極東選手権競技大会には単独チームではなく東京帝国大学主体ではあったが、初めて全日本選抜が編成された。日本は中華民国と同位優勝し、国際大会における初タイトルを獲得した。

1930年の第1回ワールドカップ開催にあたり、FIFAは加盟国に招待状を送ったものの、JFAは参加を見送った。その理由は、当時の日本国内が1927年の昭和金融恐慌以来慢性的な不況であったため、同年の昭和恐慌発生でさらに経済状態が悪化していたため、そして、JFA自身も財政難であったためである。

1936年のベルリンオリンピックでは、早稲田大学ア式蹴球部主体の選抜チームの全日本が1回戦でスウェーデンを破った(ベルリンの奇跡)。五輪後の8月19日に行われたグラスホッパー・クラブ・チューリッヒとの親善試合では、1-16で大敗した記録が残っている。これは、日本代表の全ての試合における最多失点試合及び最大差敗戦試合であった。

1938 FIFAワールドカップ・予選にエントリーし、オランダ領東インドに勝てば本大会出場が決まるはずだったが、折からの情勢不安により参加を辞退した。

戦中

1913年から開催され、サッカー日本代表も1917年の第3回から参加した極東選手権競技大会は大会を主催する極東体育協会に満州国を参加させようとした日本と拒否する中華民国の対立により1934年の第10回大会を最後に幕を閉じた。そのため日本は新たに東洋体育協会を設立し「東洋選手権競技大会」を開催しようとしたが、各国の思惑等により進展せず、1937年の日中戦争開戦により中止となった。

その後は1939年に日本・満州・中華民国臨時政府の参加により開催された日満華交歓競技大会や、開催権を返上した東京五輪に代わり開催された東亜競技大会(1940年・1942年の2回開催)で実施されたサッカーに日本代表も出場している。

戦後から1990年代まで

第二次世界大戦後の1945年11月13日に、大日本蹴球協會は会費が払えずFIFAから資格停止処分にされた。

1947年4月1日に、大日本蹴球協會から日本蹴球協会へと名称を変更し、1950年9月23日にFIFAに再加盟した。

1954 FIFAワールドカップ・予選でW杯予選に初めての参加となった。なお、韓国代表との試合は本来、ホーム&アウェイ方式で行われるはずが韓国大統領の李承晩はたった日本から独立したばかりの韓国が日本に負けること恐れたため、自国開催を拒否したことにより、2試合とも東京で開催された。日本はホーム開催ではあったが1分1敗となり、出場を逃した。

1950年代から60年代の日本は、アマチュアリズム全盛の時代であった。当時の全日本選抜選手(現日本代表選手)であった長沼健によれば1954年のW杯予選に出場した頃は、そもそもW杯がどんな大会か分からずに戦っていたという。この時期、東京オリンピックを目指して強化していた時期も重なり、W杯よりもオリンピック(以下五輪と略すことあり)に重点が置かれ、1968年のメキシコシティ五輪で銅メダルを獲得した。

1974年8月31日、協会は財団法人となり、協会誕生より53年間の任意団体から脱却し、同時に日本蹴球協会から日本サッカー協会に名称を変更した。2012年4月1日付で公益財団法人となり、それまで監督官庁だった文部科学省から完全な独立を果たした(2012年3月31日までは、財務諸表などを文部科学省に届ける必要があった)。

1986 FIFAワールドカップ・アジア予選の最終予選の韓国戦で2戦2敗に終わり、本大会出場を逃したが先立つ1983年にプロリーグを発足させていた韓国に敗れたことにより、アマチュアリズムの限界を悟ったJFAは、翌1986年にスペシャル・ライセンス・プレーヤーの導入を決定した。ソウルオリンピックサッカーアジア予選で、守備的戦術により最終戦を前に予選グループ首位に立ち、1987年10月26日、ホーム国立競技場で中国に引き分ければ20年ぶりのオリンピック出場を決められる試合で0-2で敗戦、中国にオリンピック初出場を許したが、これがきっかけとなり日本サッカーリーグの中に「リーグ活性化委員会」が設置された。また、JFAの最大の目標だったオリンピックサッカー競技が1992年のバルセロナ五輪から23歳以下の選手の大会へ規定が変更されていたため、日本A代表の目標がW杯へ変わることになった。

1992年3月、ハンス・オフトが日本代表初の外国人監督として就任、1994 FIFAワールドカップ・アジア予選では最終予選に進出するも、最終戦のイラク戦で後半のロスタイムに同点ゴールを決められて引き分けとなり、W杯への出場を逃した(ドーハの悲劇)。

1998 FIFAワールドカップ・アジア予選ではプレーオフで延長戦でのVゴールによってイランを破り、初めてのW杯出場権を獲得した(ジョホールバルの歓喜)。

FIFAワールドカップ

代表世界大会の最高峰の大会であり、国際Aマッチデーに入っている。詳細については、各大会の記事を参照

1998年、対アルゼンチン戦のスタンドの様子(トゥールーズ)。1998 FIFAワールドカップ。
1998年大会
初出場となった この大会はグループリーグでアルゼンチン、クロアチア、ジャマイカに3戦全敗し、グループリーグ最下位で終えた。なお、ジャマイカ戦では中山雅史がW杯初得点を決めた。
埼玉スタジアム2002(日本-ベルギー戦、2002年6月4日)。2002 FIFAワールドカップ。
2002年大会
開催国のため、予選免除での出場となった。グループリーグ第1戦のベルギー戦を鈴木隆行と稲本潤一のゴールで2-2で引き分けてW杯初の勝ち点を得ると、続く第2戦ではロシアと対戦して稲本の2試合連続ゴールで1-0で降しW杯初勝利を挙げた。続く第3戦のチュニジアにも2-0で勝利し、2勝1分でグループリーグを首位で通過して初の決勝トーナメント進出を決めた。決勝トーナメント1回戦でトルコにはトルシエ監督の奇策が裏目に出て0-1で敗れたものの、ベスト16の成績を残した。


2006年大会
2大会ぶりに予選に参加しアジア予選では1次予選で6戦全勝、最終予選でも5勝1敗の成績で1位で通過、3大会連続の本大会出場を果たすと共に時差の関係でワールドカップ地区予選突破第1号となった。前回大会で活躍した中田英寿ら黄金世代の選手達が20代後半〜30代前半と円熟期を迎え、更に前回大会に出場の叶わなかった中村俊輔や高原直泰が加わったチームは「史上最強」と謳われ、最終予選では視聴率が40%を超える試合が続出する等日本サッカーファンの期待はかつて無いほど大きく高まっていた。しかし、初戦のオーストラリア戦では中村が代表の大会初得点を挙げるも、後半39分にティム・ケーヒルに同点弾を奪われると、5分後にもケーヒルにミドルシュートを決められて逆転される。ジーコ監督はグルノーブル・フット38に移籍する前の2005年に16ゴールを挙げガンバ大阪のJリーグ初優勝に貢献した大黒将志を投入、アジア最終予選初戦の北朝鮮戦でロスタイムに勝ち越し弾を挙げて窮地を救った他、前年のコンフェデレーションズカップではブラジルとギリシャからもゴールを奪う等前年は5得点でかつ全て後半の残り15分間に挙げているため、大黒の終盤に入ってからの得点力に賭けたが最終ラインの茂庭を交代させた分前掛かりになったところをカウンターで切り裂かれた末、ジョン・アロイージに決められて、残り時間6分から3点を奪われ1-3と逆転負けを喫した。続くクロアチア戦では2試合連続の午後3時キックオフと酷暑の中、前半21分にダド・プルショを宮本恒靖が倒して献上したPKを川口がセーブする活躍を見せるが、柳沢敦が決定機を外すなど決めきれず無得点のまま引き分ける。宮本を出場停止で欠いた状態で臨み2点以上の差をつけて勝たなければならなかった3戦目のブラジル戦では玉田圭司のゴールで先制するも、ワールドカップの通算得点でゲルト・ミュラーの記録越えがかかったロナウド(当時12ゴール)から2ゴールを奪われるなど1-4と逆転負けを喫してグループリーグ最下位で大会を終えた。なお、この大会をもって中田が現役を引退した。サッカーダイジェストによると、ドイツ大会不振の原因の一つにジーコ監督が守備の約束事を示さなかったことで大会直前に選手間で話し合ったところ、プレスの掛け所を巡って意見が割れたことでチームワークに亀裂が入ったまま本大会に入ったことがあるとされる。
日本-カタール、2010 FIFAワールドカップ・アジア予選。ジャシム・ビン・ハマド・スタジアム。
2010年大会
ドイツ大会終了後、ジェフユナイテッド千葉の監督であったイビチャ・オシムが監督に招聘された。ところが、2007年11月にオシム監督が脳梗塞で倒れたことで、岡田武史が1998年以来となる監督に就任した。2009年6月6日のアジア最終予選においてウズベキスタンに勝利して4大会連続4度目の本大会出場を決めた。一方で、本大会直前期の試合の成績がふるわなかったことから岡田の解任論が噴出するなど過去にないほど世論の代表チームへの期待が低かった。本大会では予選からフォーメーションや戦術を大幅に変更し、グループリーグ初戦のカメルーン戦は本田圭佑のゴールで1-0で勝利した。この勝利は、海外開催でのワールドカップ初勝利となった。続くオランダとの第2戦では0-1で敗れるも、第3戦のデンマーク戦では本田と遠藤保仁のフリーキックに岡崎慎司のゴールで3-1で勝利 しオランダに次ぐグループ2位で2大会ぶりにグループリーグを突破した。決勝トーナメント1回戦ではパラグアイと対戦し90分を終えてスコアレスのまま延長戦に突入するが、そこでも決着はつかずにPK戦に突入。日本は3人目のキッカーを務めた駒野友一のシュートがバーに当たって失敗した。最後は5人目のキッカーを務めたオスカル・カルドソにも決められて3-5で敗れ、ベスト16で大会を去った。
2014年大会
南アフリカ大会終了後、アルベルト・ザッケローニが監督に就任。2013年6月4日、埼玉スタジアム2002でのアジア最終予選第7戦(第8節)においてオーストラリアと引き分け、5大会連続5度目の本大会出場が決定した。初出場から5大会以上連続出場はブラジル、イングランドに次いで史上3か国目となり、2006年・2010年大会に続き3大会連続で予選突破第1号となった。
前回大会で活躍した本田や岡崎、前回の南アフリカ大会では選外ながらも新たに台頭した香川真司等過去最多の海外組が名を連ねる攻撃サッカーを掲げたチームの前評判は親善試合でヨーロッパの強豪国と引き分けたり(オランダと2-2)、勝利する(ベルギーに3-2)等していたことから非常に高かった。しかし、コートジボワールとのグループリーグ初戦は前半16分に前回大会に続いて本田が大会初戦で先制ゴールを決めるも、後半17分にコートジボワールのエース・ディディエ・ドログバが投入され、右サイドバックのセルジュ・オーリエにクロスを上げられると19分にウィルフリード・ボニに、2分後には吉田麻也がドログバに引き付けられた末、ダイアゴナルに走られたジェルビーニョに頭で叩き込まれてわずか2分間で2失点し逆転負け。2戦目のギリシャ戦は前半38分にコンスタンティノス・カツラニスを退場に追い込みながら、再三の決定機を外し続けるなど数的優位を生かせず、0-0のドローとなった。コロンビアとの最終戦は岡崎が2大会連続ゴールで同点に追いつくも後半で3点を奪われて1-4で敗れ、初戦を逆転で落とし、2戦目は欧州諸国相手に決定機を外してのスコアレスドロー、最終戦は南米諸国を相手に先発したフォワード に2ゴールを奪われての1-4で敗戦かつゴールキーパーが3人目の交代で出場 とドイツ大会を彷彿させる様に1分2敗でのグループリーグ最下位に終わった。ザッケローニ監督就任以降、不安視された守備が最後まで改善されなかったことや、6人交代枠のある親善試合においても新戦力のテストを全くといってよいほどせずに固定したメンバーで戦ったこと、3試合とも高温多湿の会場で試合を行うにもかかわらずグループリーグの抽選前に寒冷地のイトゥをキャンプ地として決めたまま変更しなかったこと、ザッケローニ監督が代表メンバー発表の場で「日本に空中戦の文化はない」と断言し、それまで何度も代表に召集されていた空中戦に強いFW豊田陽平をメンバーから外しておきながら、第1戦と第2戦で吉田を前線に上げてロングボールの放り込みを強行するという戦術の矛盾が生じたこと、練習や親善試合でも見せなかった にもかかわらず、後のなくなった第2戦に岡崎を左サイドハーフでスタメン出場させ、香川の投入後は岡崎を前線に配置する等、ザッケローニ監督の言行不一致な采配が不振の原因だった。この結果の故に本番前に目標を優勝と公言していた本田や長友等の選手は大会後、批判に晒されることとなった。
2018年におけるサッカー日本代表(ポーランド戦)。
2018年大会
ブラジル大会終了後、ハビエル・アギーレが監督に就任。
2018 FIFAワールドカップ・アジア3次予選で、オーストラリアにワールドカップ予選で初勝利し6大会連続6度目の本大会出場が決定したが、大会直前の2018年4月9日にヴァイッド・ハリルホジッチ監督が解任され、前JFA技術委員長の西野朗が新監督に就任した(西野は、同年4月7日までにJFA理事、JFA技術委員長、Jリーグの理事を辞任し、JFA技術委員長後任は関塚隆が就任した)。解任の理由について田嶋幸三JFA会長は「ワールドカップで1%でも勝つ確率を上げたい」と述べた。なお、監督交代については批判もあった。
本大会ではグループHに入り、初戦で前回大会グループステージ最終戦で1-4と大敗したコロンビアと対戦。前半6分にコロンビアのMFカルロス・サンチェスが一発退場&PKを献上すると、これを香川が決めてW杯ではこれまでで最も早い本大会初得点を記録した。しかし前半39分、フアン・キンテーロにグラウンダーのFKで追いつかれて前半を折り返したが、数的優位を活かし後半28分に大迫勇也が決勝ゴールを決め2-1で勝利した(W杯でアジアのチームが南米のチームに勝利したのは18試合目にして史上初。それまでは3分け14敗で未勝利)。2戦目のセネガル戦は11分にエースのサディオ・マネに先制ゴールを許すなど相手に2度のリードを許したが、乾貴士と本田のゴールで追い付き、2-2の引き分けに持ち込んだ。本田は、代表史上初の本大会3大会連続得点となった。3戦目のポーランド戦では59分にヤン・ベドナレクに失点を献上して0-1で敗れたが、順位、得失点差、総得点、直接対決結果の全てが並んでいたセネガルをフェアプレーポイントで上回ったことで2大会ぶりの決勝トーナメント進出(ベスト16)を決めた。なお、同大会の出場チームでは唯一の第4ポットからの決勝トーナメント進出チームとなった。ラウンド16(1回戦)では、大会直前のFIFAランキング3位のベルギーと対戦。後半に原口元気のゴールでワールドカップの決勝トーナメントで初ゴールを挙げると、乾がペナルティーエリア外からの強烈な無回転ミドルを突き刺し、ベルギーから2点を先行したが、ベルギーが選手を2人同時に交代させたすぐ後の69分にCKの流れからヤン・フェルトンゲンのふわりとしたヘディングシュートを決められて1点を返されると、74分にはチェックに行った大迫がベルギーのエース・エデン・アザールに切り返されてクロスをドリース・メルテンスと交代したマルアン・フェライニにヘディングシュートを決められ一気に同点に追いつかれる。このまま延長戦突入かと思われた中で迎えた試合終了間際の後半AT4分に本田のコーナーキックをティボー・クルトワにキャッチされるとそこからベルギーがカウンターを発動。コーナーキックで前線に上がっていたセンターバックの吉田と昌子が2人とも戻り切れずにケビン・デ・ブルイネのスルーパスを受けたトーマス・ムニエの折り返しをヤニック・カラスコと交代したナセル・シャドリに流し込まれたところで試合終了。延長戦の末2-3で逆転負けした1970年大会のイングランド以来48年ぶりとなるワールドカップのノックアウトステージにおける2-0とリードしてからの逆転負けで史上初となるベスト8進出を逃してしまった(90分間での決着はポルトガルが北朝鮮を5-3で破った1966年大会以来52年ぶりである)。大会終了と同時に西野朗は退任した。
2022年大会
ロシア大会終了後、森保一が監督に就任。2020年東京五輪に出場するU-23日本(2018年時点ではU-21日本)監督を兼任したまま、ロシアW杯日本代表コーチから昇格する形であった。
2022 FIFAワールドカップ・アジア3次予選でオーストラリアにアウェイで初勝利し7大会連続7度目の本大会出場が決定したが、最初の3試合でオマーンやサウジアラビアに敗れて1勝2敗と後がない状態から6連勝したこと、1位で予選通過出来なかったこと、特定の選手の活躍が目立ったことから采配に対する不安定性や戦術の確立に対する指摘は少なくなかった。また、アジアカップで優勝出来なかったことや東京五輪でホームアドバンテージを活かしてメダルを取れなかったこと、さらにはキリンカップ決勝でチュニジアに0-3で完敗して優勝を逃したことも批判材料としてあった。
本大会ではグループEに入り、ドイツやスペインといったポット1クラスの優勝経験国、2大会前にベスト8入りを果たしたコスタリカと同居する非常に厳しいグループとなった。海外メディアは2強2弱のグループとの見方が大半で、ドイツ代表OBの反応は楽観的だったり対戦国であるスペインのメディアはドイツ対日本のスタメン予想にいるはずのない選手を挙げる等扱いも雑であった。
今大会は開催国の酷暑の関係で通常の時期とずらした冬の開催となった。メジャーである欧州のシーズン中に中断期間を設けての開催だったので大会前に各国に怪我人が相次いだ。エースが無念の選外となる国もあれば、大会中の復帰を期待してメンバー発表した国もあり、日本も初戦までフルメンバーが揃わない中でやりくりが大変であった。
大会前最後の強化試合で日本は36年ぶりの本大会出場を決めたカナダと対戦した。日本は立ち上がりから積極的に仕掛け前半8分に相馬勇紀が先制ゴールを決める。しかし、21分にセットプレーからスティーブン・ヴィトーリアに同点ゴールを決められると、終了間際にはペナルティエリア内でリッチー・ラリアに反則を誘発されPKを献上。このPKを71分から入ってきたルーカス・カヴァリーニに決められたところで試合終了。大会前最後の強化試合を逆転負けで終えることとなった。
初戦は4度の優勝を誇るFIFAランキング11位のドイツと対戦。開始からドイツにボールを握られる劣勢の中、前半33分にPKをイルカイ・ギュンドアンに決められて前半を折り返した。しかし、後半陣形を変えて選手交代もすると、それが見事に的中。75分に堂安律、83分に浅野拓磨のゴールで逆転し、日本代表としては史上初となる2大会連続の白星スタートとワールドカップでの逆転勝ちを達成した。2戦目のコスタリカ戦は次のスペイン戦を考えると一番勝利が欲しい相手であったが、前節から先発を5人入れ替えて臨んだ。ボールを保持して圧倒的に攻める展開の中、ケイロル・ナバスを中心とした相手のソリッドな守備を崩せず、試合終盤の81分に不用意なクリアミスから一瞬の隙を与えてしまい、ケイセル・フレールが放ったコスタリカ唯一の枠内シュートにより痛恨のゴールを許し敗戦(日本がコスタリカに敗れたのはこの試合が初めてだった)。これによりグループEの4チーム全てに決勝トーナメント進出の可能性が残り、最終戦は読めない展開となったがスペインのみ1勝1分かつ得失点+7であったため優位であった。
そうして迎えた3戦目はFIFAランキング7位のスペインと対戦。コスタリカとドイツの試合も同時刻に行われた。日本は今節で勝てば無条件で決勝トーナメント進出だったが、負ければ1次リーグ敗退。引き分けの場合はドイツも引き分ければ決勝トーナメント進出でドイツが勝てば1点差なら総得点次第、2点差以上なら1次リーグ敗退という状況だった(日本が引き分けでコスタリカが勝っても日本は1次リーグ敗退という状況だった)。日本はこの試合僅かシュート6本でボール支配率は18%、スペインは82%という圧倒的な劣勢の中で前半12分にアルバロ・モラタに先制点を許す苦しい展開に。同時刻にドイツが先制点を挙げたこともありサポーターは衝撃を受けたが、後半になるとドイツ戦と同じ采配で選手と陣形を変えて攻勢に出る。48分に堂安律、51分に田中碧が立て続けにゴールを奪い後半開始からわずか6分で逆転に成功。コスタリカもドイツから後半開始25分で2点を奪って逆転したため、一時は日本とコスタリカが勝ち抜けという状況にもなった(コスタリカは3分後に追いつかれた)。 逆転されたスペインは1次リーグ敗退の危機に追い込まれ立て続けに選手交代をして攻勢を強め、ドイツも最終的にコスタリカに4-2と2点差で勝利したために日本が決勝トーナメントに進むには勝利しかなくなった。しかし、パス1,000回を駆使したスペイン相手に5分間で効率良く2得点かつ堅守で逃げ切り、アジア勢史上初となるスペイン戦の勝利と日本代表としては史上初となる2大会連続の決勝トーナメント進出を勝ち取った。また、スペイン戦の勝利により日本のW杯における勝利数は通算で7となり翌日勝つ韓国と並んでアジア勢最多となった。
2回目となる1位通過した日本はラウンド16(1回戦)で、前回大会準優勝FIFAランキング12位のクロアチアと対戦。前回トーナメントでPK勝ち2回、延長勝ち1回、今大会でもわずか1失点であった試合巧者との対戦は戦前から塹壕戦の様相を呈していた。開始から日本が攻めながらも相手のルカ・モドリッチを中心としたクロスやロングスローを多用した攻勢に押し返される展開であったが、前半43分にセットプレーの流れから前田大然が待望の先制点を挙げる。しかし、55分にクロスからイヴァン・ペリシッチにヘディングで同点ゴールを決められ、そのまま決着は着かずPK戦にもつれ込む。日本はドミニク・リヴァコヴィッチに3人のシュートが止められて、最後はクロアチアの4人目マリオ・パシャリッチに決められたところで試合終了。またしても史上初のベスト8にはあと一歩届かなかった。これまで4大会のW杯に出場した長友佑都は試合後に「日本サッカーは確実に成長していると感じています」と述べた一方で「これから日本サッカーの発展のためにも、Jリーグをもっと盛り上げていかないといけないと思います」と危機感も隠さず、吉田麻也主将も「今大会を通して一人でも多くの子どもたちがフットボールを好きになって、Jリーグを盛り上げて、日本のサッカーが少しでも成長すれば、自分もその一端を担えたという意味でうれしい」と代表が更に強くなるには国内リーグの盛り上がりは必須という本音も覗かせた。田嶋幸三会長も「2050年までにワールドカップを日本で開催し、その大会で優勝するという目標に着実に近づいているとカタールで実感することもできました」と帰国後の記者会見で述べた。
今大会を振り返るとポット1の国から初めて勝ち点を奪い、1大会で2回逆転勝ちしたのはブラジルや(西)ドイツに続いて52年ぶり3チーム目、66年大会以降のチームとしては最低保持率で勝利する等記録づくめの大会となった。国際サッカー連盟(FIFA)は、決勝後本大会を総括し、日本代表をアルゼンチン、クロアチア、モロッコと共に「傑出していたチーム」と評価した。海外メディアからも様々な論評が溢れ、アジア勢が決勝トーナメントに3ヵ国進出したのも欧州勢の次に多く史上最多であったが、直近大会で初めてベスト8に行った国(ウクライナ、パラグアイ、コスタリカ、ロシア、モロッコ)をみるとPK戦の勝ち上がりが多く、グループリーグとは別にトーナメントに特化した対策も急務である。理由としては実力が均衡した国同士の組み合わせ、守備中心の試合になりやすいためである。大会終了後、森保監督の続投が決定した。W杯終了後の指揮官継続は日本代表史上初である(これまでの監督は大会終了後に退任していた)。
2023年9月9日には、2022 FIFAワールドカップ以来の再戦となったドイツとフォルクスワーゲン・アレーナで対戦した。試合は前半11分に伊東純也が先制ゴールを決める。8分後にレロイ・サネのゴールで一時同点にされるも、直後に上田綺世が勝ち越しゴールを決める。終了間際にも浅野拓磨と田中碧が立て続けにゴールを決めて4-1の完勝を収めた。
2023年10月13日には、デンカビッグスワンスタジアム(新潟)にて行われたMIZUHO BLUE DREAM MATCH 2023にて2022年11月にW杯前最後の強化試合で逆転負けしたカナダと対戦した。前半2分に田中碧が日本最初のシュートで先制点を奪い取る。しかし、19分に大迫敬介がペナルティエリア内でアルフォンソ・デイビスを倒してしまいPKを献上。それでもこのPKのキッカーを務めたジョナサン・デイビッドのシュートを大迫が自ら右足で止め失点を回避すると前半40分には相手がクリアを試みたボールがミラン・ボージャンに当たってオウンゴールという幸運な形で追加点を挙げる。2分後にも中村敬斗、49分にも田中がこの試合2点目となるゴールを決め、史上初の5試合連続1試合4得点という記録をたたき出した。89分にジュニオール・ホイレットのゴールで1点は失ったが追加点は与えないまま4-1で勝利し2022年11月のW杯前最後の強化試合のリベンジに成功した。
カナダ戦から4日後の17日にはノエビアスタジアム神戸(兵庫)にて行われたキリンチャレンジカップ2023にて2022年6月にキリンカップ決勝で後半に3点を奪われて完敗を喫したチュニジアと対戦した。日本は試合開始から押し気味に試合を進め、相手ゴールに迫る場面を作る。しかし、シュートが枠を捉えられなかったり、相手DFにブロックされたりとここ5試合連続で4得点以上を奪ってきた攻撃陣はなかなか機能せず両チーム共に得点のない状態が続く。それでも前半43分に古橋亨梧が以前所属していたヴィッセル神戸の本拠地で待望の先制点を挙げる。後半も主導権を握って進め、相手を押し込む時間が続くと69分に伊東純也のゴールで追加点を奪い取る。その後もチュニジアに何もさせないままシュートも最後の最後に放たれた1本のみに抑えて2-0で勝利し2022年6月のキリンカップ決勝の雪辱を果たした。

FIFAコンフェデレーションズカップ

各大陸別選手権の王者の大会。プレW杯の大会では国際Aマッチデーに入っていた。2017年大会(第10回)で廃止。

1995年大会(第2回、当時の大会名はキング・ファハド・カップ)
アジアカップを初制覇して初出場した大会であったが、2試合2敗・得点1失点8のグループリーグ最下位と惨敗に終わった。
2001年大会(第5回)
地元開催となった当大会では、初戦で北中米カリブ王者カナダを破りコンフェデレーションズカップ初勝利を上げると、第2戦でアフリカ王者カメルーンを撃破しグループリーグ突破を決めた。第3戦では南米王者ブラジル相手に善戦して引き分け、グループリーグ1位となった。準決勝では大雨の中、オーストラリアと対戦、中田のFKが決勝点となり1-0で勝利し決勝進出。しかし、決勝前に中心選手である中田が所属クラブであるASローマのスクデット争いのためにチームを離れ、決勝ではフランスに0-1で惜敗した。男子日本代表がA代表に於けるFIFA主催の大会で決勝に進んだのは史上唯一の快挙である(2022年現在)。
2003年大会(第6回)
初戦でオセアニア王者ニュージーランドに大勝するも、欧州王者フランス、南米王者コロンビアに連敗。グループリーグ3位となり、2大会連続のノックアウトステージ進出はならなかった。
2005年大会(第7回)
欧州王者ギリシャに勝利し、南米王者ブラジルと引き分けるも初戦で北中米カリブ王者メキシコに敗戦したことが響き、得失点差でグループリーグ3位となりノックアウトステージ進出ならず。
2013年大会(第9回)
アジアカップ2011を制し、2大会振りの出場となったが同組にブラジル、欧州王者・イタリア、北中米カリブ王者・メキシコとワールドカップ優勝経験国2ヶ国が入る「死の組」に入り、3戦全敗のグループリーグ最下位に終わった。攻撃的サッカーを標榜して来た日本代表ではあったが、失点数は3試合で9点に及び、守備力不足が露呈した。

アジアカップ

アジアサッカー連盟(AFC)主催のアジアの代表王者を決める大会で、国際Aマッチデーに入っている。優勝すればFIFAコンフェデレーションズカップ(2017年大会で廃止) に出場できた。

アジアにおいては、AFC主催のアジアカップ(サッカー単一種目での大陸選手権)と並んでアジアオリンピック評議会主催のアジア競技大会(総合競技大会)がかつて高い位置を占めていたので、サッカー日本代表は後者をより重視した。その理由としては、当時はアマチュアリズム全盛の時代で、オリンピックを重視していたため五輪と同年のアジアカップを軽視していたことや、現在とは違い代表に投資できる年間予算も限られていたことなどが挙げられる(当時のアジア大会の最高成績は1951年ニューデリー大会と1966年バンコク大会の3位。U-23の大会に変わった後の2010年広州大会で優勝を果たしている)。

1967年7月、台北で開催された第4回アジアカップイラン大会東地区予選に日本B代表が初参加したものの予選で敗退した。B代表が出場したのは、同じ7月にA代表がペルーとブラジルへ遠征中だったためである。続く第5回タイ大会は不参加した。1975年6月、香港で開催された第6回イラン大会東地区予選では初めてA代表が出場した。東地区予選大会は決勝に進んだ2チームが出場する形だった。6月14日の組み分け予備戦(組み分けを決めるために行う試合)で香港と対戦し引き分けたもののPK戦で勝てず (0-0 (PK3-4))、グループリーグでは1勝1敗で準決勝に進み、中国と対戦したが、6分、33分と失点。日本の得点は43分に1点を返したのみで終わり、1-2で敗れ予選敗退が決まった。その後、第7回クウェート大会、第8回シンガポール大会と立て続けに参加しなかった。

前述のとおり、1992年バルセロナ五輪から五輪が23歳以下の選手の大会になったことで1987年10月26日にソウル五輪アジア最終予選第6戦最終戦中国戦で日本が0-2で敗れ、予選敗退が決まった直後からJFAは日本A代表の最大の目標をワールドカップへと完全に切り替えた。

1988年、第9回カタール大会予選で大学生を主体とするB代表が初めて予選を突破し、そのままB代表が同年12月の本大会に出場したが、本大会では1次リーグ4試合を通じ無得点で1分3敗のグループ最下位で大会を終えた。当時は依然としてJFAやマスコミはアジアカップを軽視しており(同時期に日本で開催していたトヨタカップを重視し、アジアカップに帯同する記者が少なかったことについて大会の関係者が次回の日本開催について考えなおす旨の発言もあった)、バルセロナ五輪(この五輪から23歳以下の大会)アジア予選に向けたチーム作りの一環として第9回カタール大会予選にB代表を参加させた。ところが、期せずして予選を突破したため、そのまま本大会にも出場させたという(ただし、このB代表からはいずれも1969年8月1日生以降という年齢制限のため五輪予選には参加していない)。

JFAは、日本代表監督としては史上初の外国人監督であるハンス・オフトを1992年3月に日本代表監督へ就任させた。

1992年10月30日から開幕する第10回日本大会へは開催国として出場が決まっており、開催国としても翌年5月15日に迫ったJリーグ開幕に向け盛り上げるためにも、オフトがチームを掌握するためにも(就任当初は基礎を徹底するオフトに主力が反発するも結果が出るに従い収まっていったが、中心選手のラモス瑠偉だけが猛反発した。1992年9月26日のオフトとの個人面談で和解したが、アジアカップの結果次第では再燃する恐れがあった)、そして何より翌年4月8日から始まる1994年アメリカW杯アジア予選(1993年4月8日がアジア一次予選初戦タイ戦)に自信を持って挑むためにも、この大会での勝利、好成績が求められていた。

広島県の各地で開催された日本大会では初戦のUAE、2戦目の北朝鮮といずれも引き分け、3戦目の前にUAEが北朝鮮に勝利したため 暫定3位となり、それまで1勝1分のイランに勝たなければグループリーグ敗退となる状況で、53分に相手FWが退場になり人数的に有利になりながらもなかなか得点を挙げられなかったが、87分に井原正巳のパスから三浦知良のゴールで先制し、その後アディショナルタイムにイランにさらに2人の退場者が出る荒れた試合になったものの1-0で辛勝、決勝トーナメント進出を決めた。準決勝の中国戦では開始早々に失点、その後後半に2点を入れ逆転したものの、60分にGK松永成立が相手を蹴ったとしてレッドカードで退場、1人少ない状態から一旦は追いつかれたが、84分に中山のヘディングゴールで3-2で辛勝。決勝では、サウジアラビアに対し、36分の高木琢也のゴールを守り切り1-0で勝利、主要国際大会で史上初めての優勝をもたらした。実質日本が初めて真剣に取り組んだアジアカップで、初の栄冠を勝ち取ったのであった。またこの大会は日本各地にサポーターが生まれるきっかけにもなった(それまでも東京の国立では日本サッカー狂会をはじめ数少ないサポーターたちが声をそろえて応援し続けていたが、この大会ではウルトラス・ニッポンの一般観客を巻き込みながらスタンド全体で手拍子と歌によって行う大規模な応援が注目を集め、マスコミが報道した。そのことで翌年のJリーグ開幕以降、日本各地にサポーターが誕生することになった)。

1996年の第11回UAE大会はグループリーグを3戦全勝で通過したものの、準々決勝でクウェートに0-2で敗れ、連覇を逃した。

2000年の第12回レバノン大会は直前のシドニー五輪を戦った中村俊輔・高原直泰ら「黄金世代」といわれたシドニー五輪代表と、名波浩や川口能活らフランスワールドカップ以来のメンバーが融合したチームをフィリップ・トルシエ監督が率い、圧倒的なパフォーマンスで大会を席巻。グループリーグを2勝1分で1位通過すると、準々決勝ではイラクを4-1、準決勝では中国を3-2でそれぞれ逆転で降す。そして決勝戦では前回優勝のサウジアラビアを1-0で破り、2大会ぶり2度目の優勝を果たした。

2004年の第13回中国大会ではジーコ監督のもと主力を怪我などで欠き、地元中国との対戦のみならず全ての試合で、プレー中のみならず国家斉唱の際にまで中国人サポーターの激しいブーイングを受けるなど逆境の中での戦いであったが、ノックアウトステージでは初戦のヨルダン戦ではPK戦にもつれ込み、1-3の絶体絶命の場面からGK川口能活の2つのセーブを含む相手の4本連続失敗で逆転勝利、準決勝では0-1から39分に遠藤保仁が退場処分となり不利になりながら後半に一旦逆転、その後再逆転を許すも終了間際に中澤佑二のゴールで同点に追いつき、延長に入り玉田圭司の決勝ゴールを守り切り4-3で決勝進出、決勝戦では地元中国を3-1で下して、2大会連続3度目の優勝を果たした。

2007年の第14回4ヵ国(タイ、マレーシア、ベトナム、インドネシア)共催大会ではグループリーグを2勝1分の1位で通過。準々決勝では初参加のオーストラリアをPK戦の末に勝利してベスト4へ進んだものの、準決勝でサウジアラビアに2-3で敗れ3連覇はならず、さらに3位決定戦でも韓国相手にPK戦を制することが出来ず4位に終わった。日本は、1996年大会準々決勝でクウェートに敗れて以降、この大会の準決勝でサウジアラビアに敗れるまで16試合連続無敗を続けていた。なお、サウジアラビアも1984年大会の初戦から16試合連続無敗を続けていたが、1992年大会決勝で日本に敗れ記録が止まった。なお、日本は初優勝した1992年大会以降グループリーグは全て無敗で1位通過しており、グループリーグの連続無敗記録は2015年大会までで21試合となっている。

2011年の第15回カタール大会ではグループリーグを2勝1分の1位で通過。準々決勝の地元カタール戦では10人になりながらも3-2で逆転勝利。準決勝の韓国戦では延長戦でも決着が付かずPK戦に突入し、川島永嗣が相手のPKを2本止める活躍で勝利し決勝進出。決勝のオーストラリア戦では0-0のまま延長戦に突入し、延長後半に長友佑都の左サイドからのクロスボールに李忠成がボレーシュートで合わせ代表初ゴールとなる決勝点を決めて、2大会ぶり4度目(歴代最多)の優勝を遂げた。

2015年の第16回オーストラリア大会ではグループリーグを3戦全勝、無失点で1位通過。準々決勝のUAE戦では開始早々にこの大会初失点を喫するも、終盤に柴崎岳のゴールで追いつき延長戦に突入。ボール支配率・シュート数では相手を圧倒し、決定機をことごとく作りながらそれらを全て逃し続け、延長戦でも勝負を決められずPK戦の末1番手の本田と6番手の香川が失敗し無敗(3勝1分)のままベスト8で敗退。準々決勝敗退は加茂周監督が日本代表を率いた19年前の1996年大会以来5大会ぶりとなり、Jリーグ発足後に参加したアジアカップとしても同大会と並び過去最低タイ記録となった。

2019年の第17回UAE大会ではグループリーグから準々決勝までの5試合を全て1点差で勝利。準決勝では優勝候補のイランを3-0で破り決勝に進出した。しかし、決勝でカタールに1-3で敗れ、2大会ぶりの優勝を逃した。なお、この試合が森保体制となってからは初の敗戦であった。また、優勝を逃した日本は大会通算5度目となる決勝で初の敗者となった。

AFCアジアカップ2023は開催予定だった中国が開催権を返上したため、カタールでの開催となった。前述の2022 FIFAワールドカップが同じくカタールで2022年11月20日から12月18日まで開催された影響もあり、2024年1月12日から2月10日までの開催となる。本大会で日本はグループDに入り、初戦でベトナム、第2戦でイラク、最終節でインドネシアと対戦する組み分けとなった。初戦のベトナム戦は前半11分に南野拓実のゴールで先制するも直後に16分・33分と立て続けに失点し、一時逆転されるも直後に45分・45+4分と立て続けに得点して逆転し4-2で勝利。しかし、第2戦のイラク戦ではアイマン・フセインに前半5分にヘディングで先制ゴールを決められると45分+4分にもフセインにヘディングでゴールを決められて前半を2点ビハインドで終えることに。後半に入ってからは日本のペースで試合を進め、試合終了間際の90+3分に遠藤航がヘディングでゴールを決めて1点を返すも同点には追いつけず1-2で完敗。A代表で臨んだ1992年大会以来初のアジアカップグループステージでの敗北を喫した。日本はこの時点でグループステージ首位通過の可能性が消滅した。第3戦のインドネシア戦では試合終了間際にロングスローからサンディ・ウォルシュのゴールで失点するも上田綺世の2ゴールの活躍で3-1で勝利し、決勝トーナメント進出を決めた。決勝トーナメント1回戦のバーレーン戦では前半31分に堂安律のゴールで先制すると、49分に久保建英がゴールを決める。しかし、64分に板倉滉と鈴木彩艶が交錯したことによるオウンゴールで1点は失ったが、72分に上田綺世の3点目が決まりバーレーンに3-1で勝利し、ベスト8進出を決めた。準々決勝はカタールW杯後16戦無敗を維持するイランと対戦した。開始から日本がゲームを支配する中で、前半28分に守田英正が待望の先制ゴールを挙げる。しかし、55分にモハマド・モヘビに同点ゴールを決められると、その後はイランを相手に守勢に回る時間が続く展開に。このまま延長戦突入かと思われた試合終了間際に守備陣の連携ミスから板倉がペナルティエリア内で相手を倒してしまいPKを献上すると、このPKをアリレザ・ジャハンバフシュに決められたところで試合終了。アジアカップ史上初めて全試合で失点をし、総失点数は5試合で史上最低の8失点と守備が安定しなかった。史上最強JAPANとも称され優勝候補筆頭だったが、3大会ぶりの優勝には届かず、史上最低タイのベスト8で大会を去ることとなった。

コパ・アメリカ

南米サッカー連盟(CONMEBOL)主催の南米の代表王者を決める大会で、国際Aマッチデーに入っているが、CONMEBOLに所属していない招待された代表には国際Aマッチデーによる拘束権はない。日本代表はアメリカ州外からコパ・アメリカに招待参加した最初のチームで、これまでに1999年大会と2019年大会に出場した。

2011年大会にも招待を受け出場予定であったが、同年3月に発生した東日本大震災に伴うJリーグの日程変更により、主力となるはずの国内クラブ所属選手の招集が難しくなり、また欧州クラブ所属選手の招集も困難であった(アジア大陸の選手権ではないので代表拘束権がない)ことなどから、参加を断念。 2015年および2016年もスケジュール調整の関係で参加を辞退した。

1999年大会以来の出場となった、2019年大会は平均年齢22.3歳という東京五輪世代中心で構成されたメンバーで、初戦のチリ戦は0-4と大敗したが、2戦目のウルグアイ戦は2-2の引き分けに持ち込み、勝てば決勝トーナメント進出となる3戦目のエクアドル戦では、中島翔哉のゴールにより先制するも1-1の引き分けに終わり、決勝トーナメント進出を逃した。

EAFF E-1サッカー選手権

東アジアサッカー連盟(EAFF)主催の東アジアの代表王者を決める大会。国際Aマッチデーには入っていないため、各国とも、国内以外の海外リーグに所属する選手を招集するのが難しく、国内リーグの選手のみの代表となることがほとんどである。日本代表は2003年大会から出場しており、2022年現在の成績は、優勝2回、準優勝5回、3位1回、4位1回である。

2017年大会では、初戦の北朝鮮戦は前半から攻めあぐねる場面が散見されるなど、かなりの接戦を強いられたが後半ATに井手口陽介がボレーシュートを決めて1-0と競り勝った。第2戦の中国戦も初戦に続き、前半は決定力を欠いてスコアレスで折り返したが、試合終盤の84分に小林悠が代表初ゴールを決めると、その4分後には昌子源が約40メートルのロングシュートを打ち、追加点を決めた(ゴールを決めた昌子も代表初ゴールとなった)。試合終了間際にPKを決められ1点返されるも、2-1で逃げ切り勝利した。負け以外で優勝が決まる最終戦の韓国戦は3分に小林のPKで先制するも、その後に3点を奪われるなど1-4と大敗を喫し2大会ぶりの優勝を逃した。なお、この試合で監督を務めたヴァイッド・ハリルホジッチは、翌年3月のヨーロッパ遠征後の4月7日付で解任された。

2019年大会では、初戦の中国戦は29分に鈴木武蔵が先制ゴールを決めると、70分には三浦弦太が2点目のゴールを決めた(ゴールを決めた2人はいずれも代表初ゴールとなった)。試合終了間際に1点を返されたものの、同点にさせることなく2-1で勝利した。第2戦の香港戦は菅大輝、田川亨介、小川航基の東京五輪世代の3人の活躍で5-0の快勝を収めた(ゴールを決めた3人は全員が代表初ゴール、小川は代表デビューでハットトリック達成という史上3人目の快挙を成し遂げた)。負け以外で優勝が決まる最終戦の韓国戦では28分に先制ゴールを決められ、0-1で敗戦。韓国に逆転され2位に終わり、3大会ぶりの優勝を逃した。

2022年大会は、開催予定だった中国が開催権を返上したため、自国開催となった。初戦の香港戦は相馬勇紀、町野修斗、西村拓真がそれぞれ2得点ずつを決め6-0で大勝(町野と西村はこれが代表デビュー戦だった)。だが続く中国戦ではシュート20本を放ちながら得点できず、0-0の引き分けに終わる。勝つ以外優勝はないという状況で臨んだ韓国戦は前半を0-0で折り返すと、49分に相馬勇紀が先制ゴールを決める。その後も64分に佐々木翔、72分に町野修斗が立て続けに得点を決め、3-0で勝利。韓国を逆転し4大会ぶり2回目の優勝を飾った。


日本代表は、日本サッカー協会によって編成されるサッカーのナショナルチームである。愛称は「サムライブルー」。国際サッカー連盟(FIFA)およびアジアサッカー連盟(AFC)に加盟している。

日本代表は、1917年に創設された。1936年に開催されたベルリンオリンピックのサッカー競技に初出場し、その後、1954年に開催されたスイスワールドカップに出場した。その後、日本代表は1998年に開催されたフランスワールドカップに初出場し、2002年に開催された日韓ワールドカップではベスト16に進出した。2010年に開催された南アフリカワールドカップではグループリーグで敗退したが、2014年に開催されたブラジルワールドカップではベスト16に進出した。2018年に開催されたロシアワールドカップではグループリーグで敗退したが、2022年に開催されたカタールワールドカップではベスト16に進出した。

日本代表は、AFCアジアカップで4回優勝しており、AFCチャンピオンズリーグでも3回優勝している。また、キリンチャレンジカップやEAFF E-1サッカー選手権でも優勝している。