クルブ・セロ・ポルテーニョ(スペイン語: Club Cerro Porteño)は、パラグアイの首都アスンシオンのアバリオ・オブレーロ地区を本拠地とするサッカークラブである。

History

クラブ名称は1811年1月19日にブエノスアイレス軍(ポルテーニョス、「港の人」の意味)とパラグアイ軍の間で行なわれた「セロ・ポルテーニョの戦い」に由来している。まだスペインの植民地だったパラグアイ軍はスペイン本国政府に見放されたが、パラグアイ植民地政府によって戦闘が続けられ、ブエノスアイレス軍から大勝利を収めた。この戦闘はセロ・ムバエ(Cerro Mbaé、ムバエの丘)で行なわれ、パラグアイ軍の歴史のハイライトとなった。

1912年10月1日、スサーナ・ヌニェスと若者グループによって設立された。この時期のパラグアイはコロラド党とリベラル党というふたつの政党が激しく対立し、政府が不安定な緊張状態にあった。このため、設立者は両党の政党カラーをクラブカラーに使用することを決定し、パラグアイ人の団結と友好の象徴として、赤色(コロラド党)と青色(リベラル党)がユニフォームに用いられた。やがてシャツには白色も使用され、パラグアイ国旗の三色(赤・青・白)がそろった。1913年に初のリーグ優勝を飾ると、1918年の全国選手権プレーオフではナシオナルと対戦。残り20分の段階で0-2と劣勢だったが、その後4得点を挙げて4-2とし、ナシオナルを逆転して優勝した。この「ゴールの嵐」がシクロン(El Ciclón、ハリケーン)というクラブの愛称の由来である。

プリメーラ・ディビシオンでは29回優勝しているが、国際タイトルを獲得したことはない。コパ・リベルタドーレスでは1973年大会、1978年大会、1993年大会、1998年大会、1999年大会、2011年大会でベスト4となったが、つねに準決勝の壁に阻まれている。コパ・スダメリカーナでは2009年にベスト4となった。

2001年にはトップチーム以下、年齢別の全てのカテゴリで優勝するという快挙を成し遂げた。2008年5月にはオズワルド・アルディレスが監督に就任したが、成績が低迷して8月には解任され、ペドロ・トログリオが後任監督に就任した。2010年のFIFAワールドカップで「美人過ぎるサポーター」として話題になったラリッサ・リケルメはセロ・ポルテーニョのサポーターである。セロ・ポルテーニョのサポーターはセリスタと呼ばれる。

セロポルテーニョU20は、パラグアイのサッカークラブ、セロポルテーニョのユースチームです。パラグアイU-20選手権には4回出場しており、2013年大会で優勝しています。また、コパ・リベルタドーレスU-20には6回出場しており、2013年大会では準優勝を果たしています。

セロポルテーニョU20は、パラグアイ国内で最も成功したユースチームのひとつであり、多くの有望な若手選手を輩出しています。たとえば、パラグアイ代表のオスカル・ロメロとアンヘル・ロメロの兄弟、そしてパラグアイ代表のディエゴ・デ・サはすべてセロポルテーニョU20でプレーした経験があります。

セロポルテーニョU20は、攻撃的なサッカースタイルで知られており、多くのゴールを奪うことで知られています。また、セロポルテーニョU20は、守備も非常に堅固であり、失点を抑えることで知られています。

セロポルテーニョU20は、今後パラグアイサッカー界を担うと期待されているチームのひとつであり、多くの注目を集めています。